魚の目




 背中にすがる綿の布がじわじわと髪を撫でる。
 頬を本の上に寝かせれば、インクのにおいが鼻をつく。ごくごく平凡なインクのにおいが鼻をつく。
 曲がりきった背中に風が射すことはない。雨に震える猫の気持ちが痛いほどに共鳴する。


 明日を見通す千里の眼がほしいと思う。

 躓くことを知らないコウモリの翼がほしいと思う。


 頬の肉が圧縮されて、最後は目の皮膚とつながる。


 精神力は疲れて動こうとしない。
 だったら眠り姫になったつもりで、ぐったりと、死んだように布団の上へ倒れこんでしまえばいい。だけど、それはで
きない。
 小さな箱の中にある想像力は、からだをいっぱいに働かすことを望んでいた。
 明るい、子供のような好奇心は、あまりにも精神力とは懸け離れていて、教室の中で無理矢理席に着かせられる
問題児のように丸くなっていた。
 我慢できなくて、机を頑丈な顎でがじがじと噛んでいるのが、今のこの状況なのだ。


 気まぐれに部屋に触れるのが、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という、5本の指。
 それらは役立たずで、まともなことを報告しに来ない。
 私は滅入ってしまって、椅子の上でもぞりと身体を捩ろうとするのだけど、体温で温められたクッションがずれるの
が名残惜しく、ずっと同じ体勢。


 時計の音が魚の鼓動で、時計は魚が元気だから時間を紡げる。

 聴覚がおかしなことを情報司令部に送り付けてくる。



   インクの味はコーヒーのようですか?

 舌をたらりと垂らして、紙の表面に触れる。
 唾液で文字が潰れて本のページが台無しになってしまったのか、鼻のあたりに目がないからわからない。

   コーヒーの味はしたのでしょうか?

 咽喉に力をいれずに問いかけてみると、味覚は返事をしなかった。
 その代わり、嗅覚が答える。

   はい、しました。空気は茶色く染まってゆきます。

 視覚がゆらりと脆弱な笑いをする。

   そんなことはないでしょう?

  『そんなことはないでしょう。とうとう現実を逃避してしまうのですか?』

 司令部は不安そうに眉を寄せた。


   茶色の空気は目に見えない。茶色の空気は捕まえられない。

 嗅覚は、民謡のような調子で唄う。



 私は介護用ベッドに横たわっている。そんな気分で背中を椅子と平行になるよう傾ける。
 肩掛けが腕を伸ばして、床に墜落した。




 トントントン。

 間を空けて、ノックされたドアの音が耳をよじ登って脳に泳ぎ着く。

 トントントン。 それは確かに、
 トントントン。 永遠に響くかのごとく、
 トントントン。 美しく部屋を揺らめき、ざわつかせた。


 「失礼しますね。おや、眠っておられなかったのですか?」

 「しゃ・・・、オクターブさん。疲れてはいるのだけども目は冴えていて・・・・」

 コーヒーからの湯気が円を渦巻いてのびていく。
 扉の方から、箱のような四角い室内がセピアに色付く。モノクロームよりも懐かしい淡い色。
 机の隙間に、宵闇のような電球に、入り込んでは、埃までもを瑠璃色にきらめかせる。
 鼻をひくつかせて、息を吸い込んだ。
 あいまいだったほろ苦い匂いがたっぷりと肺の中に溜まる。

 「無理に名前で呼ばなくてもいいのですよ。
  そうですか、でしたらこれをあなたに差し出すのはまずかったですね。眠れなくなってしまう・・・」

 首を激しく横に振り回すと、何層もの天使の輪を描いていたコーヒーの湯煙が、ふるりと震えて壊れた。
 突然空気が、風に吹かれて飛ばされてしまったみたいで心細くなったけれど、小さなお盆を持つ彼が、なぜだかサ
ーカスのピエロみたいに見えて、私はくいと首を下げた。きっと変な顔をしているだろうから。

 「車掌さん、コーヒーを頂いてもいいですか?匂いを嗅いでいたら咽喉が渇いてしまって・・・」


 コーヒーにはカフェインが含まれている。
 それは人の眠気を細かく分解して、感じさせなくする働きがある。
 疲れている精神力にカフェインが呼びかけて起こすことはできないかもしれない。だとすると、想像力ばかりが潮騒
のように駆け回っている私には役不足だろう。
 だけど、今の気持ちはそういうことを言いたいのではない。
 単純。
 コーヒーがおいしそう。車掌さんのコーヒーはおいしいって知ってる。
 ただそれだけ。

 「そういうことなら・・・・、どうぞ」

 「ありがとうございます」

 車掌さんが摘んだマグカップは、私の手の中でそっと包まれた。人肌よりは高めの温度を、指先の指紋で受け止め
る。
 鼻をくすぐるのは、湿った淹れたてのコーヒー豆の香り。
 舌先で感じる感触はするりと透き通っていて、温かな液が口内に慎ましく広がった。
 時間が経過して、冷めた様子を受けた。でも、熱いのが苦手な私には有り難かった。
 もしかして、車掌さんがそこまで考慮してコーヒーを淹れてくれたのか、と思い上がってしまうことは、私の独りよが
りだろうか。

 マグカップに八分目まで注がれた黒く濁りのないそれは、いつものようにおいしかった。
 苦いだけじゃない。
 それは、宇宙のように深く潜り込む。ものが散らばった乱雑な部屋を片すように。

 「おいしい・・・・・」

 「ありがとうございます」

 まだ隣にいてくれた車掌さん。
 車掌さんの笑った顔は、いつも造り物ではないから好きだ。
 安らかにするような、泣いている女の子をなだめるような・・・・・・。
 もっと、何か清らかな。


  宇宙に零れ落ちた孤独な隕石は、帰り道を知っているの?
 
  魚の目をした迷子の子猫は、親のもとへ歩み寄ることができるの?

  切符を買うお金のない家なき子は、改札の前で静かに涙を曇らせることしかできないの?


 見て見ぬフリの自尊心が先立つそれぞれの人生。
 もし、救いの手があるのなら、それは彼のような存在だろうか。


 「冷えますね」

 車掌さんは机の横に、どこまでも遠い柔らかな視線を送る。
 そこは壁ではなく、地球を貫通するよりも深い穴を刳り抜いたようなガラス張りの窓だった。

 黒い宇宙に浮かぶ星々は、何千メートルも離れているのに、寄り添いあっておしゃべりをしているように見えた。

 「冷えますね。けれど、とても暖かいです」

 こちらを向いた車掌さんに、半分の重さに減ったマグカップを、少し前に突き出して見せる。



 カフェインの効果が切れたら、今日はぐっすり眠れるだろう。
 魚の目のようにパッチリを冴えた想像力も、眠り姫のように大人しくなって、温かな白湯に包まれるかのごとく倒れ
こむ、きっと。
 目を閉じるまで、車掌さんの照れくさそうな幸せな笑顔を思い出すことだろう。
 想像力は大切な人のことでいっぱいになってほしい。
 そう、思ったから。









アトガキ
再録その2。
樋口さなみさまに贈らせてもらったオクさゆです。
甘めを目指したはずが訳の分からないところ多々で(汗)






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