その日は雨が降っていて。

バスから降りた彼は、目の前のポリバケツを見下ろしていた。はっとしたように驚いて、あたりをきょろきょろと見渡して。
そして彼は、ポリバケツの中にちょこんと鎮座しているその子猫に何事か囁きながら、傘をそのまま提供してしまった。
雨はさほど強くはないが、しばらく歩いていれば全身がずぶ濡れになってしまうような雨量だった。
傘のない彼は、なんとか雨をしのごうと思ったのだろう。せいぜいA4のノートサイズの小さな鞄を頭上に掲げた。
ポリバケツにいるクリーム色の子猫。私のいるところからでは聴こえない。けれど彼が照れくさそうに笑って、何か言い残して・・・それはわかった。
きっとあの子猫は、自分の体が濡れなくなったのは彼のくれた傘のおかげなのだと気づいて、お礼に高い声で鳴いたのだろう。

私は彼とその子猫のやり取りが好きだ。
拙くてさりげなくて、時々彼らの思いは空ぶって。ここからでも聞こえるほどに鋭く子猫が鳴いていたこともある。

最初、子猫はただ単に彼のくれるシーチキンやら猫缶やらソーセージやらが目当てで甘く擦り寄っていた。お人よしの彼は、深く考えもせずに自分は懐かれていると素直に喜んだ。
けれど、たまたま何のえさも用意していないままバスのステップを降りた日があったのだ。
えさづるが来たとばかりに甘く鳴いて近づく子猫。
「ごめんな。今日は何も持っていないんだ」
彼はそう言ったという。
すると、途端に子猫はフギャーと威嚇するように鳴き捨ててそっぽを向いてしまった。
唖然と立ち尽くすしかない彼。
「子猫に懐かれたと思っていたら、ただの『えさをくれる人間』でひとくくりされていたわけだよ。もうあのときは泣きたくなったね」
彼は後ほど、からっと笑いながら話してくれて。そしてほんの一瞬、らしくない深刻な表情をつくったのだ。

それでも毎日接触を続けていれば、子猫にとっての「彼」は「特別な人間」に昇進していくもので。
徐々に徐々に。それはあまりにもゆっくりと変化していくものだったから、本人である彼には子猫にとって自分がどれだけ大きな地位を占めているか、なんてちっとも気づかなかった。
彼の話を聞いていた私だけが、彼と子猫の間に存在する、種族を超えた関係に驚いたものだ。
彼が会社でうまくいかなくて、落ち込んだ気持ちを抱えたままバスを降りる。
すると、子猫はニャと短く鳴いて、前足で地面をトントンと叩いたという。
まるで、「悩みなら聞いてやるから」と後輩を応援する気のいい上司みたいに。
彼は胸に溜め込んでいたうっぷんや弱音を、自分よりもずっと小さなそいつにすべて吐き出していた。
黙って隣りに座って、ときたまニャアと屈託なく鳴いて。
「いやー驚くほどすっきりしたんだ」
彼が嬉しそうにそう言うから、私も同じようににっこり笑んでしまったものだ。

今、その子猫は子猫と呼ぶにはいささか、大きく・・・成長してしまって、むしろデブ猫と呼んだ方が相応しいように思える。
でも、そんなこと言ってしまったら持ち前の貫禄ある目つきで鋭く睨まれることだろう。
「さあ、ご飯だよ、ししゃも」
彼が「ししゃも」と名付けたクリーム色の巨猫は、眠そうにフニャアと鳴いて、リビングを横切った。
彼とししゃもの間に割って入らせてもらったはいいけれど、ししゃもにとって私が彼と同等の地位に着くのは程遠いだろう。
「あ、ご飯の時間かあ。はいはいししゃももどいて」
ぐいっとクリーム色の毛玉を蹴る彼。ニャアと転がる毛玉。そしてすぐに彼の足に丸い体を巻きつける。
「ぎゃあ!やめろよ、ししゃも!」
「あはは」
「ああもう、笑い事じゃないよ。君もひっぺ返すの手伝ってくれよ」
それでもやはり、私は彼らが大好きだ。最近よくそう思う。






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