今日がバレンタインだということは、重々承知している。
いや、自分でも意識しすぎだと自覚するほどに。

この前ようやっと彼、サトウさんと一言二言言葉を交わすのに成功した。もし今日も話せたなら二度目になる。
私には自信があった。サトウさんと世間話をして「それじゃあ」と手を振って別れる自信なら。
ただし今日は話が違う。

バレンタイン。

よりによって、知り合ってから(正式に)二度目が、女の子が好きな人に想いを伝えるという一大イベントの日、なのである。
これは自分の想いを伝えるべきなのか否か。
この前知り合った女から本命チョコをもらって、その後の二人の関係がうまいこと運ぶ可能性は?
私が考える常識の範囲では、ほぼ玉砕決定だ。
彼の反応で傷つきたくない。だからといって、自分は彼のことを何も想っていないなんて思われたくない。
私のこの気持ちに少しでも気づいてもらえたなら。
昨日会話を交わしたあのわずかの間だけでも、サトウさんは随分鈍い人のように思えた。
あの性格では直球以外では私の気持ちになんて微塵も気づいてくれないに違いない。

あれこれと考えているうちに、そろそろサトウさんがいつも降りるバスが来る頃だ。
どうなるかわからないから、渡すためのチョコは作っておいた。
問題は、これをサトウさんの手に届けるのか自分のお腹に収めるのか。
ぼんやりした頭のままで花の茎を切り口を斜めに切る。刃物を持っているというのに、不注意にもほどがある、と後から私も薄ら笑いを浮べた。

「あ」

ブロロロロ

バスが、来た。
いつもの通りにサトウさんはそのバスに乗っていて、若草色のスーツで身を固め、くたびれた茶色の鞄を脇に抱えていて。
バス停のわずか先を一瞥した。彼がいつも取る行動だ。
彼はあるものを発見するとそいつに近づく。それはそれは嬉しそうに(そして私は、その子に向けるもの以外で彼のあれほどの笑顔を見たことはない)
見つけられないと、そのまま歩道橋を渡って私のいる花屋の前を通過するのだ。
その日は後者だった。クリーム色の子猫はたまたまどこかに出かけていたらしい。
少し残念そうな顔をしてから歩道橋を渡る。
だんだんと、サトウさんがこちらに近づく。
私の心拍はバクバクと速まるばかりだ。心音が、まだ幾分か距離のあるサトウさんにも聞こえてしまうのではないか、と思うほど。

私はぎりぎりまで渋っていた。

渡すか?渡さないか?
そんなの分かりきっている。’’渡した方がいい’’、なんていうのは。

ただ私には一歩踏み出す勇気が足りなくて。
「あの・・・!」
と、一言発してサトウさんを振り向かせることすらできなくて。
呆れてしまうほどに簡単なことが、私にはできなくて。

サトウさんは店先にいた私に形式ばった挨拶だけ残し、私が「さようなら」と返す前にそのまま花屋の前を通り過ぎようとして、
結局・・・・・通り過ぎてしまった。

固まった私の体は呆気にとられて動かない。
唯一、こぶしだけがふるふると震えた。乾いた眼球の代わりに握りこんだ両のこぶしが泣いているようだった。
ぐるぐると上手く整理のつかない脳。なんとか繋がった言葉は恐ろしく冷めていた。

「ああ、こんなものなのか・・・・」

あまりにも呆気なく、私が考えあぐねていた事態が終了する。実際はこんなものなのだ。
健闘する以前に、用意していたチョコは自分の胃袋行きが決定。
ああ、これで本当の本当に終わりなのだ。
まだ告白もしていないのに、私の思いは振られたも同然だった。
まるで抜け殻になったように、視界がぼやけて見える。

「ニャア」

だから、足元のその子が鳴いていることにすぐには気づかなかった。
はっとして声のした方に視線を送る。
そこには小さなクリーム色の子猫がいた。見慣れたとぼけた顔をわずかに傾けて、ちょこんと座っている。
その姿に、なぜだか無性に泣きたくなった。今度は本来涙の粒が流れ出る眼球から。塞き止めていた門が開くように、始めはゆっくりと次第に勢いを増して。
泣くだけ泣いた。

赤い目をしていたって相手は猫だ。気にせず顔をその子の方へ向ける。
「ありがとう。ずいぶん楽になった。そうだ、君オスだよね?自分で食べるのも虚しいから君が食べてくれないかな?」
言いながらチョコのある店の奥へ向かう。答えは聞かなかったけれど、背後で子猫の鳴く声が聞こえたように思うからいいのだろう。
チョコの包装をといてむき出しにし、子猫の前に置く。
子猫は一度私の顔を仰いで、私が頷いたのを確認するとむしゃむしゃとかじり出した。
よかった。どうやら猫もチョコは食べられるらしい。
熱心にチョコにかぶり付いていた子猫は、なんと丸々一個を自分の胃にすべて収めてしまった。
どうやらとてもお腹が空いていたようだ。
私としてもこんなに一生懸命食べてくれるとすごく嬉しい。惨めな気持ちで、自分で消化してしまうよりもずっと。
「ニャア」
目を細めて私に向かって一鳴き。
「どういたしまして。」
笑顔で言葉を返せた自分に、直後とても驚いた。まさかこんなにも早く立ち直ってしまうなんて。
それでも沈んでいるよりはよっぽどいい。
子猫は満足そうにすたすたと店から遠ざかっていく。
私はそんな子猫に手を振った。「ありがとう。気をつけて」と。

見えなくなるまで見送ろうと思った。
だから途中、急に子猫が走り出したのにはすぐに気づいた。
そして、私の心臓はきゅっと縮まったのだ。
なぜなら、そこにサトウさんが現れたからで。理由はわからないけれど、虚ろではなく本物の彼がここに戻ってきたのだ。
サトウさんは子猫を抱き上げた。例のあの笑顔で。
そのあとすとんと子猫を地面に下ろす。

「ありがとう。ししゃもはチョコも好きなんだよ。」

そのクリーム色の子猫に向けるものには叶わなかったかもしれないけれど。少なくとも私にとっては初めての、「私だけ」への笑顔だった。
ししゃもと呼ばれたその子の口元を見て、私の握っていた包み紙やらを認めて、彼は私にお礼を言ってくれた。

「どう、いたしまして」

声はわずかに上ずってしまったけれど、最悪だと思ったバレンタインが私の中でピカピカ光りだしている。感じた瞬間に頬が火照った。
来年は、絶対に、サトウさんにチョコを渡そう。そしてもちろん、だれよりも美味しそうに食べてくれるししゃもにも。








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